南島原市南有馬町の展望温泉施設 原城温泉 真砂

大地震から始まった原城温泉の歴史
温泉掘削のようす
温泉掘削のようす(昭和38年)

大地震で現れた温泉の兆候

本町に温泉湧出の可能性がありそうだとされたのは、大正11年の島原半島南部を中心とした大地震により、湯煙をあげたことにはじまります。

1922年(大正11年)12月8日午前1時50分、島原半島南部の南北有馬町を中心とした震度6の大地震が起こりました。この地震による死者は26名・重軽傷者35名、家屋倒壊600余戸、半壊家屋は実に1,400余戸という甚大な被害をもたらしました。

また、浦田名の駒崎海岸には地割れが生じ、有馬干拓の東南隅を走る方向では最大30cm幅、また南北方向にも10cm幅の亀裂が生じていたのです。

住民は、「雲仙爆発の前兆ではないか」「寛政4年の島原大変のように大津波が来るかも知れない」と、恐れながら地割れのない箇所を選んで避難し、原城の高台などで1週間を越す野宿を強いられました。

その後、海岸のナゴヤ(海藻の名前)が茹だっていたり、海岸の砂浜でブクブクと泡を出しながら生温いお湯が出ているところを、住民は目撃することとなります。
近所の子供たちは、学校帰りや水泳をした日などに、自分たちで砂を掘って風呂を作り入っていたそうです。

南有馬町営原城温泉センター
「南有馬町営原城温泉センター」
国民宿舎原城荘
「国民宿舎原城荘」

掘削への一歩。そして湯が溢れる現在へ

昭和28年、それを聞き知った島原市杉谷の野島基次氏は温泉発掘を考えます。権利を得、6ヶ月にわたり120mの地下まで掘削したものの、わずか摂氏27度の湯しか出ず、やむなく中止となります。

昭和37年、この資源を原城観光に結び付けて泉都建設を目指そうと、九州大学松下教授に地質調査を依頼します。その結果、温泉湧出を有望視され、昭和38年、権利を譲り受け、県の補助を受け掘削を再開します。
地下253m、ついに摂氏38度に達するお湯が湧出したのです。

昭和40年には、「町営原城温泉センター」(公衆浴場)、2年後の昭和42年には「国民宿舎原城荘」が相次いで開業、町内外の多くの皆様に親しまれ、利用されていました。しかし、施設の老朽化により建て直しを余儀なくされ、新たな町民の憩いの場として、平成11年7月1日、温泉保養宿泊施設「原城温泉真砂」として新しく生まれ変わったのです。